母島(北部) |
沖港から母島北端近くまで1本の舗装道路(都道北進線)が通じている。
沖港から比較的近い部分には農場として整備された場所もあるが、そこから先は東港以外は特になにもない。
道路の終点・北港には戦前まで集落があったが今は無人である。
今はこの道路の利用者は多くない。
ハスベイの眺め。沖に浮かぶのは向島。
西浦海岸入口。下りなかったが。戦時中は西浦に震洋隊(小型木造特攻艇の隊)基地があったとのこと。
途中の風景
新夕日ヶ丘
新夕日ヵ丘からの眺め
石門入口。石門地区から乳房山を含む東海岸一帯は森林生態系保護地域に指定されている。
希少な生態系とともに手付かずの鍾乳洞もあるらしい。
石門へ行くにはネイチャーガイドの同行が必要である。時間があったら行きたかった。
猪熊谷トンネル
途中の風景。トンネル抜けたあたりと思う。
戦争末期に母島の陣地構築に従事した独立歩兵二七四大隊第一中隊の戦没者を慰霊する猪熊観音。
本土との連絡も途絶え物資が欠乏し体力が衰え次々と病死し・・というようなことが刻まれている。
ビッグビーチ(大浜)の風景
ロングビーチ(長浜)展望台とそこからの風景
ロングビーチで見た夕景。刻々と色合いが変化していった。
二十丁峠。この道路の西海岸側と東海岸側との境界である。向こうへ越えると東海岸側となる。
庚申塚探照灯跡。戦時中の大型探照灯の残骸が壕内に残る。
探照灯本体。直径は2mくらい
その奥の台車。使う時に探照灯本体を外へ引き出すためのもの。
壕内から外を見たところ
六本指地蔵。右側のお地蔵様の左手の指が6本ある。
探照灯下砲台入口。ここから数分下った所に戦時中の高角砲が2残っている。
高角砲。手前の一門
奥の1門
東港の風景
東港。漁港整備中であり立派な防波堤と漁船を引き上げておくスロープが完成していた。
(まだ工事中であり本来は立ち入り禁止)
ここには1981年から1987年までの6年間捕鯨基地が置かれていた。今は小笠原で捕鯨は行われていない。
道路の終点は北港である。
戦前の母島には、沖村・北村の2つの集落があった。
戦時中の強制疎開および米軍統治時代を経て日本への返還後、沖港には再び集落が形成されたがここ北港には形成されなかった。
以来、わずかな住民が短期間住んでいたのと東港での捕鯨操業の数年間だけ作業員詰所や民宿などがあった以外は無人である。
かつて民家があった部分も完全に林となっており戦前の集落の跡を偲ばせるものは小学校跡地くらいのものである。
小学校の校庭にしてもガジュマルなど多くの木が自生し薄暗い林となっており、自然に還りつつある風情である。
北村小学校跡
正面入口の階段を上ると円形のロース石を積み重ねて作った門柱が残っている。
父島のジビターセンターの写真から当時の門柱は人の背丈をはるかに越える高さであったようだが、崩れたのか人為的にか低くなっている。
林となっている校庭
校庭の奥の方にあった石段跡。校舎への入口か?
小学校跡から見たかつてのメインストリート(今は都道)。海岸に向かって緩やかに下りとなっている。
左側の奥が小学校の石積みである。手前には警察があったらしいがその石積み跡か?
メインストリートの終点。その先はすぐ海岸である。
そこから背後を見たところ。
北港の海岸。深い入り江の奥にあり波静かである。かつてここに集落があり東京直行の定期船まで出ていたとは想像もできない。
道路終点にある構造物。これは捕鯨基地時代のもの?
都道から小道を少し行ったところにある忠魂碑。
昭和19年に震洋隊基地建設に従事した海軍第三百九設営隊の戦死者の慰霊のため終戦直後に建てられたものとある。
戦前の北村集落の様子を記した看板がある。家屋が建っていた箇所も今では完全に林化している。
さて、車道はここで終点だが更に西の大沢海岸まで遊歩道がある。歩いていくことした。
古いコンクリート橋を渡って西へいく。
特別天然記念物ハハジマメグロ。目の付近が黒いからすぐわかる。見るのは珍しいことではない。
気ままに飛び回って無邪気なものだ。自分が記念物であることなど知るはずも無いだろう。
看板によると途中にトーチカ跡があるとのことだったが発見できなかった。
たどり着いた大沢海岸。約30分くらい。
シュノーケリングに良いらしいが、滞在中ずっと吹いていた北〜東の強風のせいで波が高く、とても入れそうもない状態だった。
帰り道にて。天然記念物のアカガシラカラスバト? だとすると母島に10数羽しか残っていないとされる鳥である。
看板などもある。
北港の海岸に戻ってきた。
北港集落の背後の小川。両岸は戦前に整備されたと思われるコンクリート壁となっている。
周辺に生活用品などやビール缶などが散乱していたが戦前のもので無く後世の捕鯨基地時代のもののようだった。
日も沈んだ北港海岸。人気もなく寂しいから帰ろう。