4月30日(水)(6日目)プエルト・エデン号
狭くてちょっと臭うタコ部屋で目を覚ましたのは8時半ちょっと前だった。
タコ部屋は窓も無いので外の様子はまったくわからない。
ほとんどの客はまだ寝ている。
カメラを持ってデッキに出た。
明るかったが、緯度の高いこの地方ではまだまだ早朝のような雰囲気だった。
デッキから左(東)を見ると少しフィヨルド的な山々が連なり、真ん中に雪を頂いた秀峰が見えた。
すがすがしかった。
左手(東)の峰々。180度パノラマ撮影。
雪を抱いた秀峰。
船尾側。大型トラックがたくさん載っている。
これは右手の小島。左手にずっと本土の峰峰を、右手には時々小島を見ながら航行する。
険しい峰峰が海の間近に迫る。やはりフィヨルド的地形なんだろう。
雲の切れ間から朝日が差し込んでいる。きれいだった。
なかなかに複雑な地形を見せてくれる。ただし地図で見たらもっと陸地のそばを通ると思っていたが実際はかなり離れていてちょっと迫力に欠けた。
まあ観光船で無いのだから安全のためできるだけ陸地と離れるのは当たり前だが。
デッキで方位磁石とにらめっこしてたらおっちゃんが”それは何や?”という感じで声をかけてきた。
昨晩自分の席を占領した例のおっちゃんとその子供達だった。男の子は小6くらい、女の子は小4くらいという感じか。かわいい子達だった。
女の子は昨晩むずかって自分の背もたれを蹴っていたのがウソのように楽しそうだった。
二人はデジカメで撮ったばかりの写真を楽しそうに見ていた。
時々このような切り立ったかなりフィヨルド的地形が見れた。かなり遠いのが残念だが。
ラウンジには、まだほとんど誰もいなかった。自分が一番乗りくらいだった。しばらくして何人か来て、船員がヒマつぶし用にとビデオ映画を流した。
ジャッキーチェン主演の映画だった。
船員は自分とテレビと指差して何か言っていた。「君と同じアジア人が活躍する映画だ」などと言ったんだろう。
潮風がちょっと肌寒い。モンからさらにどんどん南へ下っているのである。
これも右の風景。時々小島が現れる。無人島なんだろう。
操舵室。
朝食も昨日晩飯を食べたビュッフェで食べる。
左端の食べ物は卵とか小麦粉を焼いたものと思うが少し甘い味でイマイチだった。スープもゼリーにかけているソースも少し甘かった。チリ人好みなんだろうが。
1600ペソ(300円弱)。
例の親子は朝も昼も持参したサンドイッチを食べていた。生活が裕福でないことは確かだ。
ちなみにお昼は例の父親から緑色の小型ピーマンのような「Ajis(アキス)」という野菜を少しもらった。結構うまかった。
一番下の階(自分のタコ部屋やトラックが乗っている階)の横の通路から例の子供2人と一緒に船首へ行った。すると上の操舵室から見つかってなにやらスピーカーで注意されてしまったのでおとなしく引き上げた。
日本の船なら立ち入り禁止区域にはチェーンの1本くらい張ってあるものだろうが。
左舷船首(操舵室横)から船尾を見たところ。
操舵室。右に結構大きな島が見える。
ちょっと身なりと雰囲気が金持ち風のおじさん達。自分のいるタコ部屋以外に上の階には何ランクかの船室がある。
狭いタコ部屋は満室だったが船室はかなり空いているようだった。
それぞれの船室には室外であるが専用トイレ・シャワールームもある。
左舷・大陸側
チリ国旗がはためく。
左舷。
典型的なフィヨルド地形のU字谷だ。時々小雨が降った。
これは右舷側。低い小さな島がたくさん見える。
もう夕方になって薄暗くなってきた。ランンジにいるとさっきの親子がまたやって来た。要するにビデオを見るしかすることの無い船内でヒマなのである。
会話集やジェスチャーで少し会話をした。彼らはプエルト・アイセンに住んでいるとのこと。旅行かと聞いたら違うと言っていた。
おっちゃんは数年間アメリカにいたこともあると言っていた。(出稼ぎか?)
母親はアイセンで待ってるのかそれともいないのかは知らないが。
自分はチャカブーコ到着後は、東進してアルゼンチンに抜けコモドロ・リバダビア辺りで大西洋を見てからアルゼンチン内を北上し、最後にアンデスを超えてサンチアゴに戻りたかった。しかも5月3日夕方サンチアゴ発の飛行機まであと2日半しか残されていない。
よほど効率的にバス(一部飛行機?)を乗り継がないと無理なので、チャカブーコから先のアルゼンチン方面行きのバス事情をおっちゃんに聞いてみた。
おっちゃんは、アルゼンチン中央部をバリローチェ経由でサンチアゴ方面へ行くバスがあり所要32時間と書いてくれた。
できればアルゼンチン中央部をそのまま北上するのでなく一旦まっすぐ東進してコモドロ・リバダビアまで抜け、大西洋を一目でも見たいと思っていた。
コモドロ行きバスもあるが明日は無いと言った。なんでや? あさってはあるという。明日は無い曜日なのか?
よくわからないが、とにかく今日の夕方上陸したらバスターミナルへ行って自分で確認してちゃんと計画を立てる必要がありそうだ。
旅も残り少なくなるとちゃんと帰りの飛行機に間に合うよう計画の精度も必要となってくる。
直行便の無い南米でしかも格安チケットで乗り遅れたら目もあてられない。
ラウンジ。
ここから数枚は少年が撮影の写真。
充電中の誰かの携帯電話。日本のよりまだだいぶでかい。しかしあまり裕福ではないであろうこの子達の父親も持っていたし、普及率はかなりのものなのだろう。
ここ数年で世界中に爆発的に広がった電化製品なのである。
これは自分以外に唯一明らかに旅行者とわかる4人組み。
右舷近くに見えた小島。いつしか船は狭いフィヨルドを進んでいた。
これまでずっと南進してきたが進路を東に変えていた。チャカブーコはフィヨルドの最奥部にあり、数10kmはこのフィヨルド内を進む。
これは前方。実に狭い。あまり広くないフィヨルドでさらに島が点在するので。
操舵室では昼間ののんびりムードとはうって変わって緊張感が漂い大勢の船員が注意深く進路をにらんでいた。
小回りの効かない大型船では操船を誤ったり他船の発見が遅れると大変なことになる。
これからもっと暗くなるのである。
左舷と思う。
また少年撮影の写真。
これも。この男性は親子と話していたが知り合いかも知れない。同じアイセンの住民か。
少年がビュッフェの厨房をのぞいて勝手に撮った。このおっちゃんが売店の店番兼ビュッフェのコック。親切な人だった。
いよいよチャカブーコに近づいた。今まで手持ち無沙汰にしていた乗客の多くがデッキに上がって着岸風景を見ていた。
それにしてももう21時近くになっていた。出発が遅れたのが原因なのか途中で遅れたのかよくわからない。
可能なら今夜中にバスターミナルに行って、あわよくばアルゼンチンの大西洋岸コモドロ行き(あればの話だか)にでも乗りたいと思っていた。
こんな時間になったからには少なくとも今晩の夜行に乗るなどちょっと厳しいかな・・・。
チャカブーコの港。ここはただ港があるだけで、ここから車で15分のプエルト・アイセンが町である。
さて、風がかなり強く夜間なのでアンカーロープと押し船をつかって慎重に着岸作業をしていた。
・・しかしあまりに時間がかかりすぎる。他の客の動きに合わせて自分も一旦船内へ戻り荷物をまとめたが一向に上陸用の跳ね上げ式甲板が降りない。
他の客はイラだつわけでも無く最下部の甲板で待っている。
待っている間に、例の父親がこの船の少し南に係留されている貨物船を指差して「・・ハポン・・・ミネラル」と言った。
日本へ鉱物を運ぶと言っているのだ。ほ〜、こんなところから何の鉱物を運ぶのか知らんが。
さて、あまりに下船が始まらないものだから一旦タコ部屋に戻った。すると急に眠くなって少しウトウトしてしまった。
寝たのはほんの10分くらいだったと思うが起きたら下船が始まっていて、ほとんどの客が降りたところだった。あれあれ・・
船を下りた。も22時を回っていた。実に入港してから上陸まで1時間半近くが経過していた。
下船したら、降りたばかりの人や迎えに来た人、トラックの下船などでごった返していた。
すると少し向こうにさっきの親子がいて別れの挨拶をした。
父親はすぐ前に止まっている2台のロングバンのうち1台を指差して、「これはコジャイケに行くから乗っていけ」と教えてくれた。
自分はまずアイセンに行こうとしか思っていなかったのだが、夕方に自分がアルゼンチンに行くと話したから、少しでもアルゼンチンに近いコジャイケ行きを勧めてくれたのだ。
2台のバンのうちもう1台はアイセンに行くのだろう。
礼を言ってバンに乗り込んだ。
しばらくすると、船内にいた男4人組みの欧米人旅行者がバンに乗り込んできた。客は自分と地元のおっちゃん2人と計7人か。
バンはやっと岸壁を出発した。岸壁で30分以上いた気がする。
アイセンまでは15分くらい。そこからさらにコジャイケは1時間くらいのはずである。
4人組はうち少なくとも2人はスペイン語を話していた。スペイン語圏の人間なのだろうか。顔はラテン系ではなかったが。
チャカブーコを出てすぐに真っ暗になった。
結構大きな川を橋でわたる。その対岸にアイセンの灯が見えた。結構広い町である。だが見る限りではほとんど平屋ばかりで高い建物など無い。
光も少なくてオレンジ色の灯が広い範囲で点在しているだけだった。
ほんとに田舎の町である。すぐに通過した。
アイセンまでの道は本当に真っ暗だった。
アイセンからコジャイケまで1時間半近くかかったか? ちょっとで眼下に広い範囲にわたってオレンジ色の灯が点在しているのが見えた。コジャイケだ!
実にきれいだった。
そこからつづら折れでどんどん標高を下げ、町中に入った。この町もアイセンと同じく平屋の建物が点在するだけの本当に田舎の町だった。
ホテルなどあるのだろうか。少々心細い。
もう夜12時近くになっていたと思う。今日中に夜行バスになど乗れるわけも無い。とにかくホテルに入るだけだ。
運ちゃんは客にどこで降りるかと聞いている。ホテルか?セントロ(中心街)か?などと。
中心街で降りて歩いてもいいのだが、もう深夜である。ホテルを紹介してもらったほうが確実か・・
スペイン語ができる4人組はホテルや明日のバスのことなどいろいろ運転手に尋ねていた。そして明朝発のカラファテ(アルゼンチンの南パタゴニアにある)行きのバスの発車時刻など聞き出すことに成功し、そのバス乗り場の近くのホテルへ行くことを合意しているようだった。
スペイン語のできない自分はなすすべも無かった。
地元のおっちゃん1人は民家で降りた。それにしても北海道の開拓村のように家間の間隔が結構広く家屋も全部平屋だった。ビルなどなさそうな町である。
運ちゃんがさっきから黙っている自分に「ハポネ(日本人)はどうするんだ?」と聞いてきた(多分)。
すると4人組みの1人が「スピークイングシッシュ?」と聞いてきた。さすがに彼らは英語も話せたか・・
「どこでもいいからホテルへ」と答えて運ちゃんに通訳してもらった。
すると運ちゃんはある民家の前に車を止めて1軒の民家に歩み寄った。ドアをノックして出てきたおばあさんと何やら話している。
そして自分に手招きした。これがホテルか? まあ泊れるならええか・・ どう見てもただの民家だが。
自分は運ちゃんに料金を渡して別れを告げた。
おばあさんは機嫌がとても悪かった。たぶん叩き起こされたからだろう。
ここはゲストハウスのような感じで3つほど部屋があった。シャワーの湯が出るか効いたら出るけど明日にしてくれと言われた。実は体が冷え切っていた。
かなり寒いのである。
それに・・・夕食を食っていなくてものすごく腹が減っていた。
空腹で冷え切った体のまま寝るしかなかった。明日の朝とにかくバスターミナルに行こう。
ベッドが3つ。
窓から見た夜景。オレンジ色の灯が無数に広がっていて寂しい田舎町だと思った。